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妖一坊やがまだ3つくらいだった頃に、ふらり何処ぞへか出掛けたそのまま、消息を絶ってしまったというお父上。何と7年振りに、やはり前振りもないままのいきなり、家族の元へ帰って来た。葉柱が知っているのは、ヨウイチロウという名前と、今からだともう十年は昔となる、彼が現役だった世代の学生アメフト界での、伝説となっている人物だったということ。名前こそアメリカ文化の象徴みたいに知名度は高かったものの、日本においての存在感は、今よりもずっとマイなーなそれであった時期でありながら。あの、腕っ節も頭の切れも半端ないほど途轍もない阿含や、そんな彼と共に人性にてチームの土台を固めていた雲水。そして、今やそちらの業界で伝説になりそうな勢いの工務店の主だという名声に追い抜かれかけているものの、記録もののマグナムキッカーだった武蔵と、策士、もとえ知略家として名を挙げていた高見…といった、様々に癖のある面々ばかりが同座した“黄金時代”において。どんなに遠かろうと、どんなに混戦状態であろうと、その球威と制御の衰えぬ鋭いパス“デビルズレーザービーム”で一世を風靡した“悪魔のQB”として名を馳せていたのが、彼(か)のお父上…だったそうなのだけれども。
「特待生扱いで大学に入ってすぐにも、ややこしい賭けばっかやるようになって。あんましチームに居着かなかったもんだから、実績を惜しまれつつも退学させられたって聞いてる。」
そんな頃合いに母上と出会って 即結婚。妖一が生まれて、これで多少なりとも落ち着くかと思いきや、ガッコという枠というか枷というかが無くなったことから、ますますの奔放にあれこれと“挑戦”しまくりの生活へと突入し、それが嵩じてのこと、何処の誰とどんな賭けをしたのやら。ふっつりとその消息が断たれてしまい、気がつきゃ7年もの歳月が経っていた…と。
「母ちゃんもさ、失踪届けとか出しときゃよかったのによ。」
そうすりゃ、7年目で死亡扱いされるから、誰に遠慮もしないまま胸張って再婚も出来たものをと。相変わらずの憎まれ口を利く小悪魔坊やではあったものの、
「戻って来た親父さんに、恨み言とか言ってたのか? おふくろさん。」
この坊やがそこまで言うのはともかくも。大人しげなあの母上でも、7年も待たされたのはさぞかし辛かったことだろから…というのは想像に如(し)くはなく。腹に溜めてたものがあっての、怒るなり泣き崩れるなりしたのかと。それでも練習が終わっての帰り道、他に聞く者もない大学構内の駐車場にてこそりと訊いた葉柱へ、
「………ん〜ん。」
柔らかな金の髪、ふりふりと揺すぶってのかぶりを振って見せた坊やであり。言葉に詰まって言い淀んだのも、それもまた興奮の余燼からか、ちょっち勢いに乗っての悪くばかり言い過ぎてたかなと、仄かに反省でもしたものか。
「母ちゃんは日頃からも、帰って来ないかもなんて全然思ってなかったらしいからな。」
どこか神妙そうな声でそう言い、
「さすがにビックリはしてたけどもな。お帰りなさいって。フツーに挨拶してんの。」
俺なんか泣いたのによと。突っ込まれる先、自分から言ってしまい、
「あのくらい気丈でないと、あんな破天荒な父ちゃんとは付き合えねってことなんだろな、うん。」
「破天荒って…。」
その程度の単語なら重々意味が判って使っていると、こっちにもありあり判る、末恐ろしい小学生。葉柱に手を借りもせず、バイクのシートの後部へひょいと横座りし、そのまま前へ足を回してまたがって、と。結構な高さのある大型バイクへ、今では一人でも乗れるようになってる育ちっぷりだが、
「それにしてもよ。」
「? なんだ?」
「いや…お前、よく親父さんだって判ったよな。」
昨夜のあの劇的な再会の場には、葉柱も居合わせており。お初にお目にかかったヨウイチロウ氏は、彼を知る人々の口から飛び出る“噂”という格好で時折 洩れ聞いていたその通り、細おもてのその顔容(かんばせ)も、淡い色合いの肌も髪や眸も。鋭角な印象の強いすらりとした肢体も、妖一坊やにたいそう似ていたのだが。3つの時に別れて以来、実物とは逢っていない身。いくら、子供の成長に比べれば大人の印象はそうそう変わらないとはいえ、
「3つの頃のコトなんざ。覚えてる以前なんじゃねぇか、フツーはよ。」
しかも、その時点からのずっとを逢ってなかった相手だ。思い出す以前の話じゃなかろうかと、そんな風に感じていたらしい葉柱へ、
「俺は、自分が生まれた時に母ちゃんが来てた寝間着の柄を覚えてっぞ?」
「…ホントかよ。」
他の誰でもないこの坊やが言うと、信じてしまいたくなるから摩訶不思議。いや、実際にそういう人もいると聞いたことがありますし、お母さんのお腹にいたときに聞いたお父さんの声を覚えてたって人もいるというから、人の記憶ってのはなかなか侮れない。とはいえ、
「まあ、父ちゃんのことに関しては、母ちゃんとかムサシとかが、事ある毎に昔の写真だの映像だの、観せ続けてくれたからってのもあるんだけどもな。」
「………おい。」
それがオチかと眉を顰めた葉柱へ、にししと楽しげに笑った妖一であり。忘れちゃっちゃあ可哀想だと思ったんじゃね? 誰がだよ。決まってんじゃんか、父ちゃんの方。はぁあ?
「だからよ、外で逢っても顔とか覚えてなかったら、ようって声かけて来たのへ“誘拐魔だ〜!”とかって騒がれたりしかねねぇじゃん。」
「…成程。」
お前の場合は特に、だな。妙に納得のいった葉柱だったが、
「まあ、何にせよ。戻って来てくれて良かったな。」
大きな手がぽんと。背中と肩の境目のところに乗っけられて。その優しい頼もしさへ、
「………うん。」
言葉以上の暖かさを感じて、胸の奥がきゅんとする。今更、しかもこの自分へ、子供をあやすためのような上っ面だけの物言いをする葉柱じゃあない。それに、ツッパリ仕様の外見と裏腹、そりゃあ気立ての優しい彼だから、昨夜、感極まって泣き出しまでした妖一の幸いを、我がことのように喜んでくれてもいるのだろう。
「これからはずっと一緒なんだから、せいぜい甘え倒せばいいさ。」
ちっとは見栄坊なところも治るかね。何だよそれ。背伸びばっかして大人ぶってるところのことだよ。
「子供らしくして居られるうちに戻って来てくれて良かったよな。」
と言いつつ、
“でもまあ、こんな可愛い子なんだから。”
多少は…あと何年かずれ込んでても十分間に合っただろうけどな、なんて。こっそりとやに下がった想いを抱いてたお兄さんの言いようへ、
「それなんだけどもなぁ。」
妙に鹿爪らしいお顔になってしまう妖一くんであり、
「あの父ちゃんだからなぁ。半年も経たねぇうちに、性懲りもなく、またどっかへ出かけんじゃねぇかと思ってさ。」
「…おいおい。」
それはねぇだろよ。だってよ、俺がまだもっとガキだった頃に、それでも放っておいて出てった奴だぞ?
「だから?」
「だから、今ならもっと心置きなく出かけられんじゃねぇかとか思ってよ。」
定職探すったって、特に取り柄もないおっさんだしな。この不景気に真っ当な職なんて、なかなか見つからないだろし、見つかってもムラっ気の多いおっさんだから務まらねぇと思うしさ。なかなか斟酌のない言いようをする坊やであり、
“…こ〜んな坊主にした責任、もしかして俺も取らされるんだろか。”
甘やかした筆頭だものなと、何だか妙なところを案じているお兄さんだったりするのである。
◇ ◇ ◇
7年はさすがに長かった。それへと関わっている間も当然のことながら様々な焦燥や葛藤に襲われたが、初志を貫くという想いの前には揺れる心も難なく静まり、やがてはそんな不安定さにさえ感覚が慣れてしまったから。我身で知った、人間という生き物の順応性の凄まじさというやつだったと思う。だが、そんな感覚からか、久々に戻った母国のあまりに平穏な空気に戸惑いや餓(かつ)えのようなものを感じかかってしまい、これを均すのにまたぞろ日がかかるのかと焦ったところを、一気に…殴りつけるよに正気に戻してくれたのが、別れたときはまだまだ物心さえついてはいなかったろうほど幼かった、自分の息子の成長した姿であり。小さくて小さくて、そこいらの女の子に負けないほど愛らしくて。こんな子を残して発てるものかと、それが一番に後ろ髪を引いたことだったのに。まだまだガキなくせして一端の振る舞いをし、そんな大胆な行動力と物言いで大人と対等なタメを張り。自分の思う通り、力任せの傍若無人に生きてるところなぞ、ああ血は争えないなとの苦笑を誘ったもんだった。
『お前さ、さっき母ちゃんを泣かすなって言ったけど。』
『…おお。』
もう眠いのか、とろとろとろんと萎えかけている小さな身を懐ろに。久々に辿る我が家までの道すがら。先程放っていただいた、それは威勢のいい啖呵をふと思い出し、一応はと訊いてみたのが、
『ホントにあいつ、泣いてたか? 俺んことで、一回でも。』
すると、それなりの熟考をしてから、
『…………………ん〜ん。』
ふりふりとかぶりを振る妖一で。だがすぐさま、子供の前では気丈な母親として通してたに違いないと、きっとこっそり泣いてたことだってあっただろさなどと、言い訳がましく付け足した坊主だったけれど。帰りついた我が家にて、出迎えにと玄関先の上がり框のところまで現れた我が妻は、
『あ………。』
さすがに驚いてはいたようだったが、それから、嬉しそうに目元を潤ませ、表情を切なげに歪ませてもくれたが、そこから…涙を落とすということはなかった。だろうよな、見かけによらず芯の強いお人なのだ。だからこそ、この俺が、添い遂げたいとまで思ったほどに…。
夏場の朝は明るくなるのが早く、日の出よりずっと早く黎明の明るさが訪れるものだから。たまに予定があっての早く起きた朝なぞは、曇天としか思えぬ空の色へ“あらイヤだ、今日は曇るのかしら”と、ドキドキさせられもする。それから陽が射し、見る見ると空を正青で塗り潰してゆくと、後は強烈な陽光との競争をとばかり、蝉は鳴き喚き、木陰はその色を深め、大気はあっと言う間に生ぬるい湯のように沸いてしまい、朝顔や芙蓉葵、ノウゼンカズラなどなどの可憐な花々が、そりゃあ頑張って眸に優しい涼感を振り撒いてくれるのだが、
“こういうのも、焼け石に水と言うのだろうか。”
ふと思いつつも手は止めず、しゃがみ込んでの小さな手仕事を続ける。もたつくと一丁前にも焦れて駆け出しそうになる小さな台風を相手に、まあ待てといなしながら背中に回された紐をリボンに結んでやって、
「ほら、出来たぞ。」
「♪」
ふわふわな質をした金色の髪が乗っかった、それは小さな背中がはしゃいでのぴょこぴょこと撥ねるのを、元気があってよろしいと微笑ましげに眺めていれば、くるりと振り返って来て、
「かーじけにゃい。」
「?」
まだよく回らない舌で、何事かを言ってくる。最近は随分とお喋りをするようになった坊やなものの、いかんせん、彼と共用していない範囲でのボキャブラリーで来られると推察のしようもなくて。アニメの主人公や決め台詞、はやっているというCMのフレーズなどだと、意志の疎通がさっぱり果たせず、その結果、膨れさせてしまうこともしばしばなのだが、
「かたじけない、ですよ。今のは。」
「おお、そうか。」
古典文学や古代史の研究者だった名残りか、時折言葉遣いが古風なマスターの口真似じゃあないですかと、クスクスと笑いもって厨房の方から現れた年若い父親の声へ、小さな坊やがますますのことぴょこぴょこと撥ねて見せ、
「よかったなあ、くう。似合うぞ、エプロン。」
やはりわざわざ屈んでやって、満面の笑みにて褒めて差し上げれば、白桃のような頬に血を上らせての真っ赤にし、目許を細め、嬉しいという羞恥に口許をたわませ、小さな幼子が咲笑う。男ばかりが3人…坊やはまだ半人前なので2人半にて営む喫茶店は、国道沿いとはいえ住宅街の取っ掛かりにあるという場所柄から、どんな時間帯であれあまり流行ってはいないものの、だからといってむさ苦しくも暗い…ということもなく。はたまた逆に、アットホームで手作りな色合いを深めてのご近所さんたちと馴れ合ったり、その勢いで井戸端会議用の“集会所”と化したりすることもなく。スタイリッシュな雰囲気は崩れぬままの、なかなかに華やいだ店としても知られており。知的で物静かで妙に風格のある店主に、日舞の師範ではないかとの噂まである、物腰嫋やかな美貌のギャルソンと、どうやらその息子であるらしき愛くるしいマスコットという顔触れを前にすると、どんなに熟れ切って、性別はもはや捨てたと豪語してそうな年齢層の女性であれ、含羞みを思い出しての楚々とした淑女に戻ってしまうため、店の空気が騒がしくも乱されることは滅多にないのだとか。
“まあ、儲けは度外視している店ですしね。”
働き盛りの男衆が二人も、年がら年中の毎日、何もせずにいる訳にもいかぬからと設けた、言わば“居場所”であることの方が先にくる、そんな場なので。熱心にもしゃかりきになる必要はなく、閑古鳥が鳴いても結構という豪気な経営。むしろ忙しくなっては困るらしいと来て、まま、これ以上の暴露は堪忍と、胸の裡(うち)に蓋をするお兄さんの鼻先、はしゃいでいた坊やが不意に、傍らの椅子に載せてあった籐籠を掴むと、たたたっとドアへと向かった。
「あ・こら、くう。」
お客様の気配に気づいたらしく、籐籠には蒸し器から出したおしぼりが入っており、
「いらっちゃいましぇ。」
かららんとカウベルが鳴ったのと同時、まだまだ愛想というもの、自分からは捻り出せない幼さのため、ちょっぴり堅いままなご挨拶を繰り出した小さな坊やへ。大概の客人は面食らうか、はたまた“可愛いわねぇvv”と笑み崩れるかのどちらかなのだが、
「…………ヨーイチっ。」
今朝一番最初のお客人が何かしら言い出す前に、小さなドアボーイさんが寸の短い腕伸ばし、無礼千万にも相手を指差してののたまったのがそんな一言で。
「え? ……………あ。」
ヨーイチといえば、彼らには遠い親類にあたる、とある男の子のこと。だが、只今、坊やが指差したそのお相手は、あの坊やよりもずんと背の高い男性であり。
「よぉ。えらくまたチビちゃいのが増えてるじゃないか。」
どこか挑発的で鋭角な風貌をし、到底子供好きには見えないのに。ひょこりとなめらかな所作にて屈み込むと、真っ赤なエプロンをまとった小さな男の子と目線をわざわざ合わせるそのお人こそ、
「ヨウイチロウっ!」
「ああ。」
マスターと似てのこと、大概のことにもたじろがずの落ち着いていることでも知られているギャルソンの青年が、今にも裏返りそうな声にて名を呼んだ相手。口角の片方だけを持ち上げて微笑って見せ、
「この子はお前の子か?」
「あ、ああ。」
「母親はよほどの美人なんだろな。目許がお前と似てない分、先々で凄みのある美人になりそうだ。」
余計なお世話だよと、言い返すその目の前で、手際良くひょいと小さな坊やを双腕の中へと抱え上げる。そんな彼の背後にて、ドアを閉じると“準備中”という札を下げつつロールカーテンを引き降ろしたのがマスターで、
「話を聞きたいのだが、よろしいか。」
深色の眸が日頃のそれ以上に冴えての強靭さをおびており、声にも有無をも言わさずという張りがあった。無論、この訊き方だ、反駁してもいいところだったが、
「ああ。」
あっさり頷いた彼こそは、昨夜、唐突にどこやらからか帰って来た、蛭魔さんチのうら若き父上だったりする。
「…まずは。永の務め、ご苦労だったの。」
カウンターの内側、丁寧に磨いての使い込まれたサイフォンが幾つか並ぶうちの1つへと、挽いたコーヒー粉とミネラルウォーターとをセットし、アルコールランプへと火を灯す。大きめの手は、事務仕事やこういった細やかな作業ではない、別な何かに相応しい、ごつごつとした武骨さを滲ませていたが、それにしては手慣れてもおり。サイフォンが一仕事する間にと、スツールへと腰掛けた客人と向かい合ったマスターの表情は いつになく重厚で。鋭気というものを孕んでの、どこか強かな精悍さを増している。それへと対するヨウイチロウ氏の態度は、逆に飄然としていて軽やかな印象。大人のお話だからねと、その腕から父上のほうへ戻された坊やが、引きはがされることへ“やーの”と少々愚図っての懐いていたほどに、表情も態度も穏やかで。
「準備に3年、後処理に4年、か。」
「ええ。」
彼が7年かけて挑んだこと。たった1日のために、前後へ足掛け7年かけねばならなかった、そんな途轍もない“計画”というか“策謀”というか。此処にいるのはその全容を知っている限られた人々であり、知っている相手だからこそ、それへの終焉を確かめる意味合いもあって、報告に来た彼でもあり。そして、
「そうまで掛かるだろうと見越した時点で、何で諦めなかったんだ。」
こちらはこちらで、それを“無謀”と詰(なじ)れる立場でもある七郎が、咬みつくような声を立てたものの、
「しょうがないさ。その子くらいの、あの頃の妖一くらいの子供らが、何も知らぬうちから歪んだ教育を受け、指導者様々と刷り込まれて。先々で爆弾抱えて自爆するよな、単なる駒扱いにされるんだ。」
そんな事実を知ったうえで、後へ引けると思うかよと。淡々とした言いようにて、無事に帰って来れたからこその尊大な物言いをし、喉奥を鳴らして笑った彼であり。そのまま、着ていたジャケットの懐ろへ手を入れると、小さなメモリーカードを摘まみ出し、カウンターの上へぱちりと置いた。
「もはや内容に意味はないがな。連中の機密ファイルの写しだよ。」
「確かに。」
彼が潜入先にてこれを写し取り、物は隠したままにて、その罪科で見越し逮捕され、裁判もないまま収監されたのが。生きたまま出られることはないことで有名であり、そのまま政権の威容を負ってもいた、天然要塞を改造した牢獄だったのだけれども。投獄された翌日にはもう、彼はまんまと独房から姿を消しており、屋上には民主革命軍の旗がでかでかと飾られていて。男がいたはずの房には、まるで身代わりのように当時の指導者の息子が酒で正体を無くしてという無様さで放り込まれていたものだから。しかもしかもその態が、ネット配信されての全世界へ中継されてもいたものだから。機密を覗かれただけでも管理体制の甘さやセキュリティの脆さを露呈したその上に、こんな無様な失態を重ねたことから、内外の支援組織からの信頼を一気に失墜させ、財政支援先でもあったバックボーンを失った指導者陣営は急速に権威を失い。その独裁政権、見る見る内にと威勢も萎えての自然消滅してしまったのが3年前のこと。せめての意趣返しにか、躍起になっての追っ手を繰り出して来た勢いが完全に断たれるまではとの用心から、あちこちへと身を伏せながら、仮で偽りの“個人証明”の数々を抹消してゆき。じっと時を待っている内、その同じ地域へ民主独立政権が華々しくも立ったので、それをもってのほとぼりが冷めたとし、故国へこうして戻って来た彼であり。
「報告は要らぬと言われていたが、俺の周囲は物分かりが良すぎてな。敢えて何も訊かない奴ばかりなんで、尚のこと、鳧をつけたくてと来たんだが。」
小さな小さな、しかも旧式のメモリーカード。それを摘まんだマスターが、何をか確かめるように小さく頷いたのへ、こちらからも同じく頷首して見せれば。大ぶりの、サラダボウルのような灰皿を取り出して、その上へかざしたカードの端、アルコールランプへと点火するのに使っているマッチにてオレンジ色の火を灯し。プラスチックのカバーごと、黒々燃やして昇天させる。
「…やーの。」
「おや、くうには嫌な匂いだったかね。」
「まあこういうのが好きになられても困りますが。」
「“くう”なんてのか? この子。」
「いや、本名はなかなか仰々しいもんだからさ。」
「本名はって…さてはマスターがつけたな。」
「そゆこと。」
樹脂が焦げる独特の刺激臭へとお顔をしかめた、小さな坊やへ話題は移り。愛らしい頬をちょいちょいとつついてやっていれば、芳しいコーヒーが供されて。これもまた懐かしい味だと、ヨウイチロウ氏の金茶色の瞳が細められ。ちょっぴり意味深、されどもはや意味をなくした何かしら。彼を縛っていた何かがやっと終わったことを告げるよに、輪郭だけとなったメモリーが、細い煙を立ちのぼらせてその存在を全うしたのであった。
〜Fine〜 07.7.26.〜8.10.
*ヨウイチロウさんが失踪していた間、何処で何していたのか。
あんまり細かいことまで暴露するつもりはなかったのですが、
それではあまりに無責任かもと思いまして、
あくまでもざっと、浚わせていただきました。
茶房“もののふ”も実は…何だかちっと怪しい店だったりするのですが。
そっちに本格的に突っ走るつもりはありませんのでご安心を。
このシリーズはあくまでも、
小さなヨウイチくんとルイさんのお話ですからねvv
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